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戸畑区のあゆみ 歴史 福柳木、大谷、牧山などから縄文、弥生時代の石斧や石槍などの石器や人が住んでいた跡が見つかっています。中の島には室町時代にお城が建てられましたが、1615(元和1)年の一国一城令によりなくなりました。
江戸時代中頃までの戸畑は、街道も通っておらず、宿場町でもなかったので、人の行き来はほとんどなく、人も家も少ない小さな村でした。戸畑は筑前の国と豊前の国の境にあり、国境石などわずかな史跡が当時の戸畑の様子を物語っています。 また、明治時代の中頃まで、樹木の茂る山と原野で、わずかに農業と漁業が営まれていて、人口は約3,000人でした。 1889(明治22)年に戸畑村と中原村が合併して「戸畑村」になり、さらに1899(明治32)年に「戸畑町」、1924(大正13)年に「戸畑市」となり、次第にまちは発展して行きました。工業の発展とともに洞海湾を出入りする船や若戸渡船の利用者が増え続け限界に達していたため、1962(昭和37)年に当時のつり橋としては東洋一の若戸大橋が完成しました。1963(昭和38)年には、ついに歴史的な5市合併により北九州市が誕生し、戸畑市は北九州市戸畑区となりました。  ●若松水道碑: 都島展望公園にある若松水道碑です。牧山古墳のお墓の蓋でつくられたと言われて います。 ※牧山古墳からは、約1.400年前の人の骨や鏡、銀環、土器、などの副葬品が見つかっており、このころから人が生活していたことがわかります。 産業 1880(明治13)年に洞海湾の「中の島」に戸畑で初めての工場が建設されました。1901(明治34)年に八幡製鐵所が八幡村に建設された後、戸畑にも多くの関連会社ができました。 特に、1914(大正3)年に旭硝子、1921(大正10)年に八幡製鐵所が戸畑に進出してきたことで、大きく発展しました。 さらに1950(昭和25)年代に、工業用水の確保、港の改良、鉄道、道路などの立地条件が整備されて工業が急速に発展し、北九州一帯は日本の四大工業地帯の一地域として全国的に有名になりました。 しかし、工業の発展は一方で公害を生みました。1965(昭和40)年頃、洞海湾は工場から出る汚水や油などで汚され、「死の海」と呼ばれていました。また、工場から出る煙は洞海湾上空を七色に染めました。 現在は、北九州市や市民、各企業の努力で公害はほとんどなくなり、洞海湾にも多くの魚が住むようになっています。
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